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本能寺の変 1582 斎藤道三の下剋上 1 152 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

斎藤道三の下剋上 1 光秀の少年時代~思春期 

1530年代、光秀の少年時代~思春期。

長井長弘、死去。

天文二年(1533)。
長井氏の当主長弘が亡くなった。
嫡男景弘がその跡を継ぐ。 

長井新左衛門、死去。

同じ年。
その、少し後。
長井新左衛門が死んだ。

ここで、長井新九郎規秀が表舞台に登場する。

父新左衛門の死により、規秀が家督を引継いだ。
後の斎藤道三である。

信長が生まれる一年前のこと。

道三の国盗りは、父子二代にわたるものだった。

父新左衛門が長井氏を取り込んだ。

 六角承禎が証人である。
 「春日文書」に、その記述がある。

 前半は、父新左衛門に関する部分。
 法花坊主 → 西村 → 長井同名。
 *【参照】118
 
  一、彼の斎治(斎藤治部大輔義龍)身上の儀、

    祖父新左衛門慰は、
    京都妙覚寺法花坊主落ちにて、西村と申し、
    長井弥二郎(長弘)の所へ罷り出で、
    濃州錯乱の砌(みぎり)、心はしをも仕り候て、次第にひいて候て、
    長井同名になり、
    (「春日文書」永禄三年七月二十一日付六角承禎条書第三条1/2)

道三が国盗りを完成させた。

 後半は、道三について。
 長井 → 斎藤同名。
 道三は、目的のためには、手段を選ばなかった。
 *【参照】141
 
    また、父左近大夫(道三)、
    代々惣領(長井氏)成るを討ち殺し、諸職を奪い取り、

    彼の者(道三)、斎藤同名に成りあか(上)り、

    剰(あまつさ)え、次郎殿(土岐頼純)を聟(むこ)に取り、
    彼が早世候て後、
    舎弟八郎殿へ申し合はせ、井口へ引き寄せ、
    事に左右をよせ、生害させ申し、
    其の外の兄弟衆、或いは毒害、或いは隠害にて、
    悉(ことごと)く、相果て候、

    其の因果歴然の事、
   (「春日文書」永禄三年七月二十一日付六角承禎条書第三条2/2)
     
 
 なお、守護土岐頼芸の追放については、後述する。

          ⇒ 次回へつづく


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