本能寺の変 1582 斎藤道三の下剋上 3 162 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
斎藤道三の下剋上 3 光秀の青年時代
織田信秀が内裏に修理費四千貫を献上した。
天文十二年(1543)
二月。
噂が、奈良に流れた。
多聞院英俊は、その額の大きさに驚いている。
十四日、
一、或る人、ヽ、内裏の四面の築地の蓋(かさ)を、
尾張のをた(織田)の弾正と云ふ物(者)、
修理して進上申すべきの由、申し、
はや、料足四千貫計り計上と云々、
事実に於いては、不思議の大営(行い)歟(か)、
(「多聞院日記」)
信秀には、経済力があった。
鉄炮伝来。
同年、八月。
信長が十歳の時である。
薩摩島津家に仕えた禅僧南浦文之(なんぽぶんし)の著作、
『鉄炮記』によれば、
天文十二年八月、乗員百余人の大船(ジャンク)が種子島に漂着し、
天文、癸卯(みずのとう)、秋、八月二十五日、丁酉(きのととり)、
我が西村の小浦(小さな入江)に一大船有り、
何れの国より来たれるかを知らず、
船客百余人、
その形、類せず(風貌が似ていない)、
その語、通ぜず、
見る者、以って、奇怪と為す、
それに乗っていたポルトガル人が「鉄炮」伝えたという。
手に、一物を携ふ、
長さ、二、三尺、
その体(てい)為(た)るや、中は通り、外は直(なお)くして
重きを以って、質と為す、
其の中は、常に通ずと雖(いえど)も、
其の底は、密(きび)しく塞(ふさ)がんことを要す、
其の傍(かたわ)らに、一穴あり、
火を通ずるの路(みち)なり、
形象、物の比倫(=比類)すべきなきなり、
其の用為(た)るや、妙薬(火薬)を其の中に入れ、
添ふるに小団鉛(弾丸)を以ってす、
先ず、一小白(小さい的)を岩畔に置き、親(みずか)ら、一物を手にし、
其の身を修め、其の目を眇(すが)めにして、其の一穴より火を放てば、
則ち、立ちどころに、中(あた)らざる莫(な)し、
斯くして、日本が西欧と繋がった。
歴史的瞬間である。
⇒ 次回へつづく
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