本能寺の変 1582 信長の甲斐侵攻 2 88 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
信長の甲斐侵攻 2 信忠、諏訪進出
勝頼は、新府城に火を懸け退去した。
その時、多くの人質を焼き殺したという。
三月三日、卯の刻(6時頃)、新府の館に火を懸け、
世上の人質余多これあるを、焼き籠(こめ)にして罷り退かる。
人質、どうっと泣き悲しむ声、天にも響くばかりにて、
哀れなる有様、申すは中々愚かなり。
勝頼は、躑躅ヶ崎から新府に移ったばかりであった。
まだ、三月(みつき)と経っていない。
去年十二月廿四日に、古府より新府今城へ、
勝頼、簾中、一門、移徙(わたまし)の砌(みぎり)は、
金銀を鏤(ちりば)め、輿・車・馬・鞍、美々しくして、
隣国の諸侍に騎馬をうたせ、崇敬斜ならず。
見物、群集をなす。
その境遇が一変した。
栄花を誇り、常は、簾中深く、仮にも、人にまみゆる事なく、
いつきかしづき、寵愛せられし上﨟達、
幾程もなく、引き替はりて、
落ち行く者たちの姿である。
太田牛一は、「哀れで、見ていられない」、と言っている。
勝頼の御前(正室)、同そば上﨟(側室)高畠のおあひ、勝頼の伯母大方、
信玄末子のむすめ、信虎、京上﨟のむすめ、
此の外、一門親類の上﨟の付々等、
弐百余人の其の中に、馬乗り(馬に乗ったのは)廿騎には過ぐべからず。
歴々の上﨟、子供、踏みもならはぬ山道を、
かちはだしにて、足は紅に染みて、
落人の哀れさ、中々目も当てられぬ次第なり。
(『信長公記』)
⇒ 次回へつづく
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