本能寺の変 1582 信長の台頭 1 244 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
信長の台頭 1 信勝謀殺
信長は、病を装った。
苦悩の末の決断。
是れより、信長、作病(つくりやまい)を御構へにて、
一切、面(おもて)へ御出でなし。
信長は、信勝を殺害した。
同十一月二日。
信勝は、これに気づいていない。
見舞いに訪れた。
御兄弟の儀に侯間、勘十郎殿御見舞然るべしと、
御袋様並びに柴田権六異見申すに付きて、
清洲へ御見舞に御出で。
清洲北矢蔵天主次の間にて、
弘治四年戊午(つちのえうま)霜月二日
河尻・青貝に仰せ付けられ、御生害なされ侯。
勝家は、やがて越前を手に入れる。
この時の手柄がもとになったという。
此の忠節仕り侯に付きて、後に越前大国を柴田に仰せ付けられ侯。
(『信長公記』)
信長と、ともにあった十五年。
永禄十一年1568~天正十年1582。
光秀を知ることは、信長を知ることである。
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