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本能寺の変 1582 斎藤道三の下剋上 1 154 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

斎藤道三の下剋上 1 光秀の少年時代~思春期 

尾張は、八郡。

 当時、尾張は、上郡と下郡の二つに大きく分かれていた。
 上郡は丹羽・葉栗・春日井・中島の四郡、
 下郡は海東・海西・愛知・知多の四郡、
 合わせて八郡である。

  さる程に、尾張国は八郡なり。 

尾張の守護は、斯波義統。

 守護は、斯波氏。
 当代は、義統である。
 斯波氏は、代々、当主が兵衛督・兵衛佐(唐名武衛)に任ぜられ、
 そのことから武衛家と称されていた。

上四郡は、岩倉織田氏。

 上四郡の守護代が織田伊勢守家。
 当主は、信安。
 岩倉城を本拠とした(愛知県岩倉市下本町)。

  上の郡四郡、
  織田伊勢守、諸将手に付け、進退して、岩倉と云ふ処に居城なり。

下四郡は、清洲織田氏。

 下四郡の守護代が織田大和守家。
 当主は、達勝。
 こちらは、清洲城に拠った(愛知県清須市朝日城屋敷)。

 義統は、大和守とともにこの清洲城にいた。
 斯波氏は、すでに昔日の力を失っており、傀儡と化していた。

  半国、下の郡四郡、
  織田大和守が下知に随へ、上下、川を隔て、清洲の城
  に武衛様を置き申し、大和守も城中に侯て、守り立て申すなり。
                          (『信長公記』)
 

信長の織田弾正忠家は、清洲織田氏の家老だった。

 やがて、信長は、この清洲織田氏を滅ぼす。
 さらに、岩倉織田氏をも滅亡へと追い込む。
 そして、尾張一国を手に入れる。

信長は、下剋上の申し子。

 正に、道三以上。
 下剋上に次ぐ下剋上。
 恐ろしい人物が、あちらにも、こちらにもいた。


          ⇒ 次回へつづく



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