本能寺の変 1582 信長の甲斐侵攻 4 231 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
信長の甲斐侵攻 4 勝頼の首
越中で、一揆が蜂起した。
信長の甲斐侵攻に関連して起きた事件である。
これにより、織田方の、神保長住の富山城が占拠された。
さる程に、越中国富山の城に、神保越中守居城侯。
然るに、今度、信長公御父子、信州表に至りて御動座侯のところ、
勝頼が、そそのかしたと云う。
長住は、捕らえられ幽閉された。
武田四郎、
節所を拘(かか)へ一戦を遂げ、悉く討ち果し侯の聞、
此の競(きお)ひに、越中国も一揆蜂起せしめ、
其の国、存分に申しつけ(支配)侯へと、
有り々々と(さも本当らしく)、越中へ偽り申し遣はし侯。
事実に心得、小島六郎左衛門・加老戸式部両人、一揆大将に罷りなり、
神保越中を城内へ押し籠め、
三月十一日、富山の城居取りに仕り、近辺に煙を挙げ侯。
柴田勝家が富山城を包囲した。
勝家は、、北国軍の総司令官である。
即刻、対応。
信長へ、戦況を報せた。
時日を移さず、
柴田修理亮・佐々内蔵介・前田又左衛門・佐久間玄蕃頭、
此等の衆として、富山の一揆の城取り巻き候間、
落去、幾程もあるべからずの旨、注進申し上げられ候。
(『信長公記』)
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