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本能寺の変 1582 信長の台頭 3 261 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

信長の台頭 3 桶狭間 

今川方の攻撃が始まった。

 同十九日。
 未明。
 再び、注進。
 
  案の如く、夜明がたに、佐久間大学・織田玄蕃かたより、
  早(はや)、鷲津山・丸根山へ人数取りかけ侯由、追々御注進これあり。

信長、出陣。

 時、至れり。
 信長は、「敦盛」をひとさし舞う。
 そして、出陣。
 
  此の時、信長、敦盛の舞を遊ばし侯。
 
  人間五十年、
  下天の内をくらぶれば、
  夢幻の如くなり、
  一度生を得て、
  滅せぬ者のあるべきか、
 
  とて、
  螺(かい)ふけ、具足よこせと、仰せられ、
  御物具(もののぐ)めされ、たちながら御食を参り、
  御甲(かぶと)をめし侯て、
  御出陣なさる。
 

    【参照】信長と「敦盛」 8~10

信長は、熱田へ向かった。

 この時、わずか主従六騎。
 
  その時の御伴には、
  御小姓衆、
  岩室長門守・長谷川橋介・佐脇藤八・山口飛騨守・賀藤弥三郎、
  これ等主従六騎、

  あつた(熱田神社)まで三里(12km)、一時にかけさせられ、
  辰の剋(8時頃)に、
  源大夫殿宮(上知我麻神社かみちかまのやしろ)のまへ(前)より、
  東を御覧じ侯へば、
  鷲津・丸根、落去と覚しくて煙上り侯。 
  此の時、馬上六騎、雑兵(ぞうひょう)弐百計りなり。

信長は、善照寺砦に入った。

 清洲→熱田→丹下→善照寺。
 ここで、軍勢の到着を待った。
 
  浜手より御出で侯へば、程近く侯へども、
  塩満ちさし入り、御馬の通ひこれなく、
  熱田よりかみ(上)道を、もみにもんで懸けさせられ、
 
  先づ、たんげの御取出へ御出で侯て、
 
  夫(それ)より善照寺、佐久間(信盛)居陣の取出へ御出でありて、
  御人数立てられ、勢衆揃へさせられ、様体御覧じ、
                          (『信長公記』)


          ⇒ 次回へつづく


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