本能寺の変 1582 光秀の苦悩 4 24 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
光秀の苦悩 4 粛清の怖れ
佐久間信盛は、別格の存在だった。
信長は、信盛に特別な待遇を与えていた。
一、信長家中にては、進退各別に侯か。
信盛は、七ヶ国の大軍勢を率いていた。
織田家中、最大の軍団である。
光秀・秀吉・勝家など、足下にも及ばない規模であった。
その、総指揮官だった。
三川にも与力、尾張にも与力、近江にも与力、大和にも与力、
河内に与力、和泉にも与力、
根来寺衆申し付け候へば、紀州にも与力。
少分の者ども候へども、七ケ国の与力。
其の上、自分の人数相加へ、働くにおいては、
何たる一戦を遂げ候とも、
さのみ越度(おちど)を取るべからざるの事。
信長の忍耐も、限界に達していた。
信長は、信盛に水野信元の遺領を与えていた。
そのことについて、両人の認識に、大きなズレが生じていた。
信長は、「武」を期待した。
だが、信盛はそれに応えず。
「銭儲け」へ、と走った。
信長が、何故(ゆえ)、そうしたのか。
信盛には、わかっていない。
一、小河(緒川)・かり屋(刈谷)、跡職(あとしき)申し付け侯ところ、
先々より人数これあるべしと思ひ侯ところ、其の廉(かど)もなく、
剰(あまつさ)へ、先方の者どもをば、多分に追ひ出だし、
然りといへども、其の跡目を求め置き候へば、
各(おのおの)、同前の事侯に、
一人も拘(かか)へず侯時は、
蔵納とりこみ、金銀になし侯事、言語道断の題目の事。
山崎の支配を任せた時も、同様だった。
一、山崎申し付け候に、信長、詞(ことば)をもかけ侯者ども、
程なく追ひ失はせ侯儀、
是れも最前の如く、小河かりやの取り扱ひ紛れなき事。
信盛は、「武」より「財」を優先した。
家臣たちの扱いについて、述べている。
信盛は、蓄財に走った。
一、先々(先代)より、自分に拘(かか)へ置き侯者どもに、
加増も仕り、似相(にあい=相応しい)に与力をも相付け、
新季に、侍をも拘ふる(召し抱える)においては、
是れ程、越度はあるまじく侯に、
しは(吝)きたくはへ(貯え)ばかりを、本(もと)とするによつて、
信長は、信盛が他の家臣たちへ悪影響を及ぼすと考えた。
「不幸」としか言いようがない。
信盛には、荷が重すぎた。
主の意を、汲み取れず。
逆行するのみ。
過酷な結末が、待ち受けていた。
今度、一天下の面目失ひ侯儀、
唐土・高麗・南蛮までも、其の隠れあるまじきの事。
(『信長公記』)
⇒ 次回へつづく