本能寺の変 1582 信長の甲斐出陣 3 124 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
信長の甲斐出陣 3 信長、出陣
天正十年1582、三月五日。
信忠の進軍は、きわめて順調だった。
三月一日、高遠城、陥落。
同 三日、諏訪に進出。
信長は、その戦ぶりに満足していた。
信長は、安土を発った。
この日は、柏原成菩提院(じょうぼだいいん)泊。
安土から凡そ九里(36km)、
三月五日、信長公、隣国の御人数を召し列れられ、御動座。
其の日、江州の内、柏原上菩提院に御泊り、
(『信長公記』)
近衛前久も、京から出陣した。
こちらには、佐和山に滞留(停滞・滞在・逗留)したとある。
五日、癸亥(みずのとい)、天晴、
未明、右府(信長)御出馬、佐和山に至り御滞留と云々、
近衛殿、御出陣、
吉田兼見は、粟田口で前久を見送った。
息兼治も、同道した。
粟田口に至り、罷り出で、御礼を申す、
侍従、同然、
光秀は、大勢の兵を率いて参陣した。
「路地中、数千騎」、とある。
かなりの数である。
来たる中国大遠征への、演習を兼ねるものなのだろう。
長期間になることが予想された。
盛方院(吉田浄勝)、安土より、上洛の次来たり、
今朝、御出馬治定なり、
路地中、数千騎、惟任向州、多人数の由、申しおわんぬ、
武具を対(帯)すと云々、
(「兼見卿記」)
兼見は、別本も残している。
天正十年、正月から六月にかけて。
すなわち、本能寺の変に関する部分について、である。
その内容も、微妙に違う。
何故、だろうか。
比較されたい。
五日、癸亥、天晴、
御家門、御発足の間、路地、粟田口辺へ罷り出で、相待つ、
侍従、同然、
即ち、御下向なり、
御礼申し入れおわんぬ、
盛方院浄勝、安土より、罷り上り、
直ぐに来りて、云く、
今朝、信長、佐和山に至り、御進発なり、
路地中、出陣の人数、安土に至り相続くの由、これを語り、
日向守、殊更(ことさら)、人数多く、奇麗の由、これを語り、
帰京しおわんぬ、
(「兼見卿記」別本)
⇒ 次回へつづく