本能寺の変 1582 上総介信長 4 203 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
上総介信長 4 道三の援軍
信長は、村木砦を落とした。
激戦の末。
今川方が降参した。
城中の者働く事、比類なき働きなり。
然りと雖も、透(ひま)をあらせず攻めさせられ、
城内、手負・死人、次第々々に無人になる様(さま)に、降参申し候。
尤(もっと)、攻め干さるべき事に侯へども、
手負・死人、塚を築き、其の上、既に、薄暮に及び侯の間、
侘(詫び)言の旨にまかせ(申し出を受け入れ)、
水野金吾に仰せ付けらる(後始末を命じた)。
信長は、涙を流した。
信長とて、人の子。
戦死者を哀れみ、涙を流した。
信長御小性衆歴々、其の員(かず)を知らざる手負・死人、
目も当てられぬ有様なり。
辰の刻(8時頃)に取り寄せ、申の下刻(16時頃)まで攻めさせられ、
御存分に、落去侯ひ訖んぬ。
御本陣へ御座侯て、それもそれもと、御諚なされ、
感涙を流させられ候なり。
信長、那古野に帰陣。
翌日。
寺本城下に放火。
そして、帰陣。
翌日(二十五日)には、寺本の城へ御手遣はし、麓を放火し、
是れより、那古野に至つて御帰陣。
(『信長公記』)
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