本能寺の変 1582 光秀という男 7 121 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
光秀という男 7 美濃の争乱
永正十六年、ここで、流れが変わった。
1519年、六月十六日。
土岐政房、死去。
頼芸がその後を継ぐ。
斎藤利良は、この機を逃さなかった。
「美濃へ」
朝倉孝景がこれを支援した。
兵、三千。
軍勢を派した。
入国時には、激しい戦いがあった。
濃州に於いて、新四郎(利良)、越前より入国時、
両方合戦、死亡の輩、数百人、
(裏書)
「 永正十六、九の下旬比(頃)より、
濃州は、越前より、新四郎入国、
朝倉合力、同名孫八大将にて、
山崎衆已下、三千ばかりにて合力 」
(「東寺過去帳」)
斎藤利良は、美濃に帰国した。
同九月。
利良は、汾陽寺に禁制を掲げた(岐阜県関市武芸川町谷口)。
禁制 汾陽寺
一、軍勢乱入狼藉の事、
一、軍勢押而(おして)執陣の事、
一、兵粮米を懸ける事、
一、伐採竹木の事、
一、放火の事、
右、若(も)し、違犯有るの輩は、速やかに厳科に処すべき者なり、
仍って、下知、件(くだん)の如し、
永正十六年九月日 藤原利良(花押)
(「汾陽寺文書」)
土岐頼武が美濃の守護になった。
朝倉孝景の後ろ楯があればこそ。
頼武は、その支援を受け、ようやく、帰国することが出来た。
暫し、平穏がつづく。
⇒ 次回へつづく
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