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本能寺の変 1582 光秀の年齢 4 145 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

光秀の年齢 4 最大の敵 

信長は、さらに九州を平定しようとた。

 となれば、1000㎞をはるかに超える大遠征となる。

  九州まで一篇に仰せつけらるべきの旨、上意にて、
  堀久太郎(秀治)御使として、羽柴筑前かたへ、条々仰せ遣はされ、

 信長は、光秀に先陣を命じた。  
 
  惟任日向守・長岡与一郎(忠興)・池田勝三郎(恒興)・塩河吉(橘)大夫・
  高山右近(重友)・中川瀬兵衛(清秀)、
  先陣として、出勢すべきの旨、仰せ出だされ、則ち御暇下さる。
                             

 光秀は、準備のため坂本へ帰った。

   五月十七日、惟任日向守、安土より坂本に至りて帰城仕り、
  何れも々々々(他の面々も)、同事に本国へ罷り帰り侯て、
  御陣用意侯なり。

                          (『信長公記』)

光秀は、遠征の過酷さを知っていた。

 光秀は、暫く、合戦から遠ざかっていた。
 丹波平定後、二年ほど、空白期間があった。

 遠征は、肉体的負担が大きい。 
 光秀は、甲斐遠征において、改めて、そのことを実感した。
 その様な年齢になっていた。

 中国大遠征は、全てにおいて、その時を、はるかに上回るものになる。


          ⇒ 次回へつづく

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