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本能寺の変1582 【重史114】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

【重史114】 「言継卿記」 

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→【シリーズ】
 信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道  
その一因 目次大 概説大 目次中 →
 1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶 
 4光秀の苦悩 5志向の相違  +信長の油断 →
 3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男 
見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
【人物】 
*◎=重要ヶ所 P=重要Point ✓=チェック済
 そ=その一因 テ=テーマ別 
*加筆修正 

【重史114】 そ第11話㉟

①明智市尉、来たる、

②愛洲薬、又、所望の間、

                     「言継卿記」

 永禄十二年1569、六月二十九日。

 明智市慰=光秀が、山科言継を訪ねた。    【 人物 】 そ第26話②
 言継は、再び、明智市慰に会った。  
 六月二十九日
 言継は、「愛洲薬、、所望の間」、と言っている。
 すなわち、この日の前にも、会っている。         そ第11話㉞
 そして、愛洲薬を所望した。
 これが、二度目。
 それ故の、「又」なのであろう。

 言継は、明智市尉=光秀に、愛洲薬を与え、「一盞」=一杯の酒を進ぜ
 た。
 相手は、京都奉行。
 斯くして、「知己を得た」=知り合いの関係になった・・・・・。

  廿九日、辛未(かのとひつじ)、天晴、
  明智市尉、来たる、
  愛洲薬、、所望の間、一包、これを遣わす、
  一盞、勧めおわんぬ、
                           (「言継卿記」)

 市尉の、「市」の文字の中に「十」がある。
 原文未確認ながら、「市」は、「十」と「兵」を重ね合わせたようにも見
 える。
 すなわち、「市」とは、「十兵」のこと。

 また、「尉」は、平安以来の、左・右衛門府、左・右兵衛府の三等官の呼
 称。
 それぞれ、左・右衛門慰、左・右兵衛慰があった。
 光秀は、十兵衛慰。
 
 以上より、
 「明智市慰」=明智十兵尉=明智十兵衛尉=光秀のこと、である。

 【引用】 そ第11話㉟ 



 ⇒ 次へつづく

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