本能寺の変 1582 信長の台頭 2 247 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
信長の台頭 2 尾張統一
信長、上洛す。
同二月二日。
突然のことであった。
山科言継がこれを日記に書き残した。
一、尾州より、織田上総介、上洛と云々、
信長は、五百の兵を率いていた。
「異形者」、とある。
余程、目立ったのだろう。
普通とは異なる、怪しい容姿・風体だった。
五百計(ばか)りと云々、
異形者多しと云々、
(「言継卿記」)
将軍義輝に拝謁するためである。
帰洛に対する祝意言上。
そして、堺見物。
抜け目がない。
一、さる程に、上総介殿御上洛の儀、俄に仰せ出され、
御伴衆八十人の御書立(随伴者リスト)にて御上京なされ、
城都・奈良・堺御見物にて、公方光源院義照(輝)へ御礼仰せられ、
御在京侯ひき。
爰(ここ)を晴れなりと拵(こしら)へ(晴れ舞台と心得、装いに工夫
をこらし)、
大のし付に、車を懸けて(太刀を金銀で飾りたて、家累代の誇り
を胸に)、
御伴衆、皆のし付にて候なり。
(『信長公記』)
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