本能寺の変 1582 信長の台頭 8 293 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
信長の台頭 8 三好の衰退
衰退の予兆。
十河一存の死。
永禄四年(1561)。
四月二十三日、死去。
原因、不明。
ここに、一つの逸話が残っている。
当時、松永久秀の関与が噂された。
常日頃から、二人の仲が良くなかったらしい。
しかし、真偽は、よくわからない。
十川一存逝去の事
永禄三年十二月、
十川民部大輔一存と松永、其の中(仲)、あし(悪)く、
常に、不快を現しける、
其の比(永禄四年四月頃)、
十川殿、瘡(そう)を煩ひ、有馬温泉え、湯治ありける、
松永、意見申しけるは、
有馬温泉権現は、あしけ(芦毛)馬を御とか(咎)めある神なり、
此れ、御馬無用、と申す。
然れども、十川殿、松永が申すことを用ひ給はず、
松永また、十川殿の宣(のたま)ふ事を背(そむ)ける事なれば、
十川殿、是れを聞きたまはず、
葦(芦)毛馬に乗り、湯治して、登山ありけるが、
案の如く、落馬ありて、忽(たちま)ち、死去ありけるこそ、
不思議なれ、
運命、盡(尽)くとは、言ひながら、あへ(敢え)なき事どもなり、
(「足利季世記」)
⇒ 次回へつづく
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