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本能寺の変 1582 信長の甲斐出陣 3 125 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

信長の甲斐出陣 3 信長、出陣 

信長は、仁科信盛の首を検分した。

 三月六日。
 岐阜へ向かう途中。
 呂久の渡しにて。
 「首実検」
 高遠城が落ちたのは、三日前のこと。
 
  翌日、仁科五郎が頸(くび)もたせ参り侯を、ろくの渡りにて御覧じ、

信長は、岐阜城に着いた。

 柏原・岐阜間、凡そ十里(40km)。

 信盛の首は、長良川の河原に晒された。

  岐阜へ持たせられ、長良の河原に懸けおかれ、上下見物仕り侯。


 同七日。
 岐阜に逗留。
 無情の雨が降る。
 
  七日、雨降り、岐阜に御逗留。
                          (『信長公記』)

光秀は、岐阜にいた。

 何を考えていたのだろうか。
 光秀にとって、美濃は故郷。
 久方振りの帰郷であった。
 昔日のことを思い起こしていたのかもしれない。


          ⇒ 次回へつづく


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