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本能寺の変 1582 上総介信長 7 222 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

上総介信長 7 弟、信勝の謀叛 

稲生の合戦。

 同日、昼頃。
 戦は、稲生の村はずれで始まった。
 
  八月廿四日、午剋、辰巳へ向つて、先づ、柴田権六かたへ向つて、
  過半かゝり給ふ。
  散々に、扣き合ひ、山田治郎左衛門討死。

 勝家は、手傷を負って、退いた。

  頸は、柴田権六取り侯て、手を負ひ侯て、のがれ候なり。
 
  佐々孫介、其の外究竟の者どもうたれ、信長の御前へ逃げかゝり、
 
  其の時、上総介殿御手前には、
  織田勝左衛門・織田造酒丞・森三左衛門、御鑓持の御中間衆四十計り、
  これあり。
  造酒丞・三左衛門両人は、清洲衆、土田の大原をつき伏せ、
  もみあひて、頸を奪ひ侯ところへ、相かゝりに懸り合ひ戦ふところに、

敵は、信長の気迫に圧倒された。

 信長は、一喝した。
 「終に、逃げ崩れ侯ひき」
 元はと言えば、皆家臣。

  爰にて、上総介殿、大音声を上げ、御怒りなされ候を、見申し、
  さすがに、御内の者どもに侯間、御威光に恐れ、立ちとゞまり、
  終に、逃げ崩れ侯ひき。
 
  此の時、造酒丞下人禅門と云ふ者、かうべ平四郎を切り倒し、
  造酒丞に頸を御取り侯へと申し侯へば、
  いくらも切り倒し置き侯へと申され侯て、先を心がけ御通り侯ひつる。

                          (『信長公記』)


          ⇒ 次回へつづく



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