本能寺の変 1582 光秀という男 7 119~123 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
光秀という男 7 美濃の争乱
*119~123は、バックナンバーです。
119 1517年、永正十四年の美濃。
守護代斎藤利良は、嫡男頼武を守護に据えようとしていた。
守護土岐政房は、二男頼芸に跡目を継がせようと考えていた。
長井氏は、頼芸を支持した。
長井新左衛門には、野心があった。
美濃は、頼武派と頼芸派に二分された。
十二月、戦いが勃発した。 「宣胤卿記」
美濃は、内乱状態に陥った。
初戦は、頼武方が勝った。
光秀の明智氏は、頼武方に与した。
120 永正十五年、再び戦いが起きた。 「宣胤卿記」
今度は、頼芸方が勝利した。
斎藤利良は、頼武とともに越前へ逃げた。
越前の守護は、朝倉氏である。
当主は、朝倉孝景。
孝景は、頼武を庇護した。 「御内書案」
頼武は、孝景の妹を妻とした。
光秀は、越前と関係が深い。
121 永正十六年、ここで、流れが変わった。
斎藤利良は、この機を逃さなかった。
朝倉孝景がこれを支援した。 「東寺過去帳」
斎藤利良は、美濃に帰国した。 「汾陽寺文書」
土岐頼武が美濃の守護になった。
暫し、平穏がつづく。
122 1520年代、美濃。
土岐頼武に、嫡男頼純が誕生した。
長井長弘と新左衛門が巻き返しを図った。
美濃は、大乱となった。
頼芸派が大勝した。
頼武は、行方知れず(没落)。
斎藤利良、死す。
123 長井長弘・新左衛門が美濃の実権を奪取した。
長井新左衛門は、着々と勢力を伸ばした。
土岐頼芸が美濃の守護に就いた。
新左衛門は、頼芸の直臣に取り立てられた。
新左衛門の野心は、止まることを知らず。
⇒ 次回へつづく