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本能寺の変 1582 光秀と信長 2 61 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

光秀と信長 2 美濃立政寺 

光秀は、藤孝の下で動いていた。

 上杉一辺倒の状況下。
 藤孝は、表立っての活動が出来なかった。
 その藤孝に代わって、光秀が動いていたのではないか。
 先に述べた、「フロイスの証言」も、「多聞院英俊の証言」も、そのこと
 を裏付けている。
 時間的にも、ピッタリと一致する。

 また、光秀は、美濃・越前、両方の事情に精通していた。
 時流に敏感で、頭脳明晰。
 実行力もあり、交渉力もあった。
 気力・体力ともに充実。
 正に、適材。
 「使者」
 光秀に、打って付けの役目だった。

信長は、伊勢を狙っていた。

 当時の信長は、軍事力強化を最優先に考えていた。
 それさえあれば。
 「上洛はいつでもできる」
 そう、思っていたのではないか。
 美濃・尾張・伊勢。
 この三ヶ国は、ともに、石高の多い豊かな国である。
 「次は、伊勢」
 そこに、有力な戦国大名はいない。
 軍事力の背景には、経済力があった。

 「上洛」について、信長は、自分の方から先に働きかけるという考えは
 なかったのではないか。
 その逆である。
 義昭から、頼まれれば動く、というスタンスだったように思う。
 その意味で、藤孝が、光秀を「使者」として起用したことは、実にグット
 タイミングだったのである。

光秀の貢献度は、大きい。

 このような状況の中で、交渉は行われた。
 となれば、「使者」の役割はきわめて重要となる。
 「光秀ならばこそ」
 これを成し遂げることが出来た。

 そのことを、誰よりも、よく知っているのが信長だった。
 そして、細川藤孝だった。
 
 光秀は、程なく、幕臣(足軽)となる。
 この時の褒美として、である。
 吝嗇家の義昭の決めること。
 藤孝としては、これが精一杯だったのだろう。

 だが、信長は、これを見ていた。
 間もなく、京都奉行に抜擢する。
 そして、さらに重要な役職へと重用していく。 

 これらについては、後述する。


          ⇒ 次回へつづく 

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