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本能寺の変 1582 光秀の苦悩 1 14 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

光秀の苦悩 1 嫡男光慶 

光秀は、悩んでいた。

 己の年齢。
 そして、老い。
 肉体の衰え。
 体力の低下。

 軍事指揮官として。
 己の役目。 
 「遠からず」
 その時は、来る。 
 そのような年代だった。

光秀の年齢。

 これについては、後述する。

光秀は、かつて、大病を患ったことがあった。

 大坂攻めの真っ最中であった。
 あいにく、梅雨の季節。
 激戦がつづいた。
 長陣である。
 その陣中で。
 劣悪な環境。
 疲労の蓄積。 
 光秀は、倒れた。

 光秀は、生死の境を彷徨(さまよ)った。
 これまでの人生で、最大の危機であった。 
 しかし、名医曲直瀬(まなせ)道三の懸命な治療と、妻の献身的な看病に
 より、奇跡的に持ち直した。
 
 考察するに、光秀は、この時の体験から、長期遠征・長期の陣中暮らし
 について、多少なりとも、不安を感じていたのではなかろうか。
 年齢に、このことが重なった。

吉田兼見がその証人である。

 兼見は、吉田神社の神主。
 天文四年(1535)の生まれ。
 細川藤孝の従弟。
 年齢は、一つ下。
 光秀と親交が深い人物である。
 信長との交流もあった。
 日記、「兼見卿記」を著した。

 天正四年(1576)、五月。
 重篤な状態だった。
 光秀は、京に戻った。
 兼見は、急を聞いて、駆けつけた。
   
  廿三日、乙卯(きのとう)、
  惟日、以ての外の所労に依り皈(帰)陣、在京なり、
  罷り向かふ、
  道三療治と云々、
                          (「兼見卿記」)

 
 これ以後、長い闘病生活が始まる。
 道三について、フロイスは次のように言っている。

  日本の六十六ヵ国にいるすべての医師のうち、特に優れた三人の医師
  が都にいた。
  その三人のうち、道三と称する者が現在第一位を占めている。
  
  この者は医術に秀でていりのみならず、多くの他の稀有の才幹を兼備
  しているところから、
  日本の諸国主、ならびに諸侯たちから大いに重んぜられ、かつ敬われ
  ている。
                           (『日本史』)

 
 光秀の妻が祈祷を依頼した。 
  
  廿四日、丙辰(ひのえたつ)、
  惟日祈念の事、女房衆より申し来たる、
  撫物(なでもの=祈祷のための人形など)以下の事、
  一書を以って、返答。
                          (「兼見卿記」)
 

信長は、使者を派して光秀を見舞った。

 光秀の身を、深く案じていたのである。

  廿六日、戌午(つちのえうま)、
  夜に入り、惟日女房衆より、大中寺(光秀の家臣)を以って、
  祈念の事、申し来たる、

  惟日御見廻りとして、左大将より、埴原(新右衛門)御使と云々、
                          (「兼見卿記」)
 

          ⇒ 次回へつづく 


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