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本能寺の変 1582 光秀と信長 3 65 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

光秀と信長 3 上洛 

永禄十一年(1568)、秋。

 いよいよ、その時が来た。

信長、京へ。

 岐阜城を出発。
 近江の六角。
 「江州一篇に討ち果たし」
 これを蹴散らし。
 「御迎へを進上」

  九月七日に公方様へ御暇(いとま)を申され、
  江州一篇に討ち果たし、御迎へを進上すべきの旨、仰せ上げられ、

信長は、尾・濃・勢・三、四ヶ国の軍勢を率いた。

 総勢6万ほどだったという。
 この日は、平尾泊。 
  
  尾・濃・勢(北伊勢衆)・三(三河衆)、四ヶ国の軍兵を引卒し、
  九月七日に打立ち、平尾村御陣取り。

徳川の軍勢も、参陣した。

 織田と徳川は、同盟関係にある。

信長は、六角承禎の様子を窺った。

 高宮に、三日ほど滞留。
 
  同八日に、江州高宮御着陣。
  両日、御逗留なされ、人馬の息を休め、

 
 観音寺城は、目と鼻の先。
 信長は、攻め方を考えた。
 
  十一日、愛智川近辺に野陣をかけさせられ、
  信長、懸けまはし、御覧じ、
                          (『信長公記』)                


          ⇒ 次回へつづく 


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