本能寺の変 1582 光秀の苦悩 4 25 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
光秀の苦悩 4 粛清の怖れ
信長は、誇り高い男であった。
忘れもしない、あの日、あの時。
信長は、鮮明に記憶していた。
天正元年(1573)、八月十三日夜中。
「朝倉破軍の刻」
朝倉勢を、急襲・追撃して、大勝利した時の戦い。
信長は、信盛に面目を潰された。
という、一件があった。
信長は、堪えた。
そして、執念深い。
そのことを、引き合いに出した。
信盛の一言が、場の空気感をぶち壊した。
一、先年、朝倉破軍の刻(きざみ)、
見合せ、曲事(くせごと)と申すところ、
(信長が、信盛らの見通しの誤りを叱責したところ)
迷惑と存ぜず、結句(けっく)、身ふいちやう(吹聴)を申し、
剰(あまつさ)へ、座敷を立ち破りし事、
時にあたつて、信長、面目を失ふ。
その口程もなく、永々、此の面にこれあり、
比興(ひきょう=卑怯)の働き、前代未聞の事。
信長は、信盛の息子、信栄の行状に呆れ果てた。
父が父なら、子も子である。
中でも、茶狂いは有名だった。
津田宗及の「天王寺屋会記」にも、頻繁に登場している。
これについては、本編にて。
一、甚九郎、覚悟の条々、書き並べ侯へば、
筆にも墨にも述べがたき事。
(『信長公記』)
⇒ 次回へつづく
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