本能寺の変 1582 信長の台頭 3 262 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
信長の台頭 3 桶狭間
義元は、桶狭間で休息をとった。
同日(五月十九日)。
義元は、沓掛城を出発した。
自信満々。
大軍勢である。
桶狭間山に陣取った(愛知県名古屋市緑区桶狭間北3丁目付近一帯)。
御敵今川義元は、四万五千を引率し、
おけはざま山に人馬の息を休めこれあり。
「四万五千」とあるが、これでは多すぎよう。
義元の領地は、駿河・遠江・三河の三ヶ国。
これらの石高(=国力)から推し量れば、もっと、少なかったものと思う。
【参照】253
同日、午の剋(12時頃)。
義元は、北西へ向けて兵を配置していた。
天文廿一(永禄三年の誤り)、壬子、五月十九日、午の剋(こく)、
戌亥(いぬい)に向けて人数を備へ、
鷲津・丸根攻め落し、満足これに過ぐべからずの由候て、
謡(うたい)を三番うたはせられたる由に侯。
徳川家康は、大高城へ兵粮を運び入れた。
家康、この時、十九歳。
大高城に入って、休息していた。
今度、家康は朱武者(しゅむしゃ)にて、
先懸(さきがけ)をさせられ、
大高へ兵粮入れ、
鷲津・丸根にて手を砕き、
御辛労なされたるに依つて、
人馬の息を休め、大高に居陣なり。
(『信長公記』)
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