本能寺の変 1582 上総介信長 4 204 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
上総介信長 4 道三の援軍
信長は、安藤守就に、道三への御礼の言葉を申し伝えた。
信長は、窮地を脱した。
道三の支援があれば、こそ。
一、正月廿六日、安東伊賀守陣所へ信長御出で侯て、
今度の御礼仰せられ、
それに対する、道三の信長評である。
守就は、このことを道三へ。
その時の、反応である。
興味深い。
廿七日、美濃衆帰陣。
安藤伊賀守、
今度の御礼の趣、難風渡海の様体、村木攻められたる仕合、
懇(ねんご)ろに、道三に、一々、物語申し侯ところに、
山城が申す様に、
すさま(凄ま)じき男、隣には、いやなる人にて侯よと、
申したる由なり。
(『信長公記』)
道三は、義龍に家督を譲った。
これから、程なくして。
道三は、隠居した。
時は、刻々と流れている。
その死の二年前のこと。
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