本能寺の変 1582 光秀の年齢 4 144 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
光秀の年齢 4 最大の敵
信長は、二つの大遠征を計画した。
天正十年(1582)の内に、二つ。
何れも、予期されていたものである。
その間隔が、あまりにも短かすぎた。
結果的に、そうなってしまった・・・・・。
一、甲斐遠征。
三月五日、出陣。
四月二十一日、帰陣。
総延長、およそ、1000㎞。
これは、無事、完了する
四月廿一日、安土に御帰陣。
一、中国遠征。
その、わずか一ヶ月後。
五月十七日、中国大遠征が発令された。
同じ頃、備中では、秀吉が高松城を攻めていた。
秀吉は、信長へ現地の戦況を頻繁に報告していた。
中国備中へ、羽柴筑前守相働き、
すくも塚の城、あらあらと取り寄せ、攻め落し、数多討ち捕り、
並びに、ゑつたが城へ、又、取り懸け侯ところ、降参申し、
罷り退き、
高松の城へ一所に楯籠るなり。
又、高松へ取り詰め、見下墨(みさげすみ)、
くも津川・ゑつた川、両河を関切り、水を湛へ、
水攻めに申しつけられ侯。
そこに、毛利の本軍が現れた。
秀吉は、巧妙だった。
高松城を囮にして、毛利輝元・吉川元春・小早川隆景を誘い出した。
芸州より、毛利・吉川・小早川、人数引卒し、対陣なり。
信長は、即座に決断した。
信長公、此等の趣聞こしめし及ばれ、
今度、間近く寄り合ひ侯事、天の与ふるところに侯間、
御動座なされ、
信長は、毛利を滅ぼすつもりだった。
中国の歴々討ち果たし、
(『信長公記』)
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