本能寺の変 斎藤道三の下剋上 4 167~174 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
斎藤道三の下剋上 4 大うつけ
*167~174は、バックナンバーです。
167 再び、織田信秀と今川義元が戦った。 「史料綜覧」
第二次小豆坂の戦い。 「史料綜覧」
信秀は、劣勢に立たせられた。
越前の朝倉孝景が死んだ。 「史料綜覧」
朝倉氏は、義景の代になった。 「史料綜覧」
168 信秀は、西美濃大垣城に兵を配置していた。『信長公記』
道三が大垣城を攻めた。 『信長公記』
169 信秀は、美濃へ出陣した。 『信長公記』
道三は、大垣城より引き返した。 『信長公記』
道三は、清州織田氏と手を結んだ。 『信長公記』
信秀は、撤退を余儀なくされた。 『信長公記』
信秀は、窮地に追い込まれた。
170 信秀は、清洲織田氏との和睦に失敗した。 『信長公記』
信秀は、道三と和睦した。
信秀は、二面作戦を取り止めた。
信長は、道三の娘を妻に迎えた。 『信長公記』
171 信長の青春時代。 『信長公記』
172 信秀は、末盛城へ移った。 『信長公記』
信秀は、今川義元を警戒していた。
信秀が病床についた。
信長が政務の一部を代行した。
173 信長は、藤原氏を称した。 「織田信長文書の研究」
信長は、後に、藤原氏から平氏に改姓する。
174 信秀と清州の間に、和議が成立した。 『信長公記』
⇒ 次回へつづく
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