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本能寺の変 1582 光秀と信長 4 77 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

光秀と信長 4 御父信長 

信長、あらばこそ。

  信長、日域(我国)無双の御名誉、末代の御面日、
  後胤之亀競(鏡=手本)に備へらるべきものなり。

信長は、室町幕府の再興を成し遂げた。

 義昭を立政寺に迎えてから、三ヶ月が経過していた。
 七月二十五日~十月二十二日。

  公方様御憑み、百ケ日の内に天下仰せ付けられ侯事
 
  一、公方一乗院殿、
    佐々木承禎を御憑み侯へども、同心なく、
    越前へ御成り侯て、朝倉左京大夫義景を御憑み侯へども、
    御入洛御沙汰中々これなし。
 
    さて、上総介信長を憑みおぼしめすの旨、
    細川兵部大輔・和田伊賀守を以て上意侯。
    則ち、越前へ、信長より御迎へを進上侯て、
    百ケ日を経ず、
    御本意を遂げられ、征夷将軍に備へられ、
    御面日、御手柄なり。
                          (『信長公記』)
 

          ⇒ 次回へつづく 

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