本能寺の変 1582 光秀の年齢 3 142 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
光秀の年齢 3 土岐の随分衆
光秀は、主君を失った。
以後、牢人となる。
光秀は、越前へ逃げた。
光秀には、越前で暮らした時期があった。
「長崎称念寺門前に、十ヶ年居住」、とある。
称念寺は、福井県坂井市丸岡町長崎に現存する。
光秀は、懇意にしていたらしい。
天文十六年~永禄十一年(1547~1568)の内の10年間。
その門前に、居住した。
惟任方、もと明智十兵衛尉といひて、濃州土岐一家牢人たりしか、
越前朝倉義景を頼み申され、長崎称念寺門前に、十ヶ年居住故、
念珠(ねんごろ)にて、
(「遊行上人三十一祖京畿御修行記」)
これについては、後述する。
光秀は、まだ、独身だった。
天文十六年~同二十三年(1547~1554)は、独身時代。
そして、次へ繋がる。
弘治年間(1555~1557)に、妻木氏を妻に迎え。
永禄元年(1558)頃に、長女が生まれ。
永禄六年(1563)に、三女が生れた。
道三の下剋上、成る。
天文十九年(1550)。
道三は、土岐頼芸を追放した。
頼芸は、尾張へ逃れ織田信秀を頼った。
法華坊主の子倅が美濃一国を奪い取った。
父土岐頼藝公、大桑(おおが)に御座侯を、
家老の者どもに属託をとらせ(仕事を頼んで任せること)、
大桑を追ひ出し侯。
それより、土岐殿は、尾州へ御出で侯て、
信長の父の織田弾正忠を憑(たの)みなされ侯。
(『信長公記』)
⇒ 次回へつづく