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本能寺の変 1582 信長と「敦盛」 10 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
信長と「敦盛」
そして、桶狭間へ。
遡ること、22年前。
永禄三年(1560)、五月十九日。
正に、手に汗握る名場面。
信長、この時27歳。
「出家の心情」が「出陣の決意」に転じている。
螺(かい)ふけ、具足よこせと仰せられ、
御物具(もののぐ)めされ、
立ちながら、御食を参り、
御甲(かぶと)をめし候て、
御出陣成さる。
(『信長公記』)
太田牛一と『信長公記』について。
太田牛一は、信長の家臣。
元々は、柴田勝家に仕えていた。
その後、信長の直臣となった。
永禄十一年(1568)の頃という。
以来、天正十年(1582)までの十五年間。
信長をよく観察した。
それらを克明に記録して、書き溜めておいたらしい。
それを元に書き上げたのが当記である。
慶長三年(1598)のことであった。
信長が没してから、16年が経過していた。
永禄十一年から天正十年まで、年ごとに順に全十五巻。
当時を知る上で、極めて重要性の高い貴重な史料である。
首巻は、その少し後に書かれたようだ。
こちらは、牛一が信長の家臣になる前の記録である。
その多くは、口承等に拠ったものであろう。
この頃は、まだ、牛一と同様、存命の旧臣たちが数多く存在していた。
若き日の信長について、彼らから聞き取ることが比較的容易にできた
ものと思う。
複数から、裏付けをとることも可能だっただろう。
だが反面、記憶違い等のため、年月日・場所等について、確実性に
問題のある箇所も有る。
牛一にとって、信長は自慢の主君。
印象深い場面だったのだろう。
鮮烈な記憶として、後々まで残った。
⇒ 次回へつづく