本能寺の変 1582 光秀という男 5 110 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
光秀という男 5 1400年代
1400年代、前半。
将軍は、4代義持・5代義量・6代義教・7代義勝の時代。
土岐氏は、頼益―持益の代。
土岐氏は、求心力を失った。
土岐氏は、一族の結束が強固だった。
その多くが康行に与した。
しかし、敗戦。
一揆は、崩壊した。
彼らは、新当主に反抗的だった。
土岐氏は、大きく弱体化した。
最早、かつての輝きはない。
土岐氏は、富島氏と斎藤氏を重用した。
土岐氏は、外様を起用した。
すなわち、一族以外の者たち。
富島氏・斎藤氏、ともに、外様である。
この様な状況の中から、斎藤氏が台頭していく。
富島氏と斎藤氏の権力闘争が始まった(美濃錯乱)。
文安元年(1444)。
斎藤氏が守護代富島氏を暗殺。
守護代の座をめぐる争いが激化した。
美濃は、錯乱状態に陥った。
⇒ 次回へつづく
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