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本能寺の変 1582 光秀という男 7 120 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

光秀という男 7 美濃の争乱 

永正十五年、再び戦いが起きた。

 1518年、夏。

  濃州、去る十日、敗北、
  斎藤新四郎(利良)、土岐子(頼武)を伴い、
  越前堺へ引く、
  
  土岐父は、残ると云々、
  斎藤彦四郎、この間、入国と云々、
               (「宣胤卿記」永正十五年八月十三日条)
 

 斎藤彦四郎は、妙純の子。
 利良の叔父にあたる。
 政房・頼芸に味方した。
 この時は、尾張に逃れていた。

今度は、頼芸方が勝利した。

斎藤利良は、頼武とともに越前へ逃げた。

越前の守護は、朝倉氏である。

当主は、朝倉孝景。

 孝景は、明応二年(1493)の生れ~天文十七年(1548)没。
 母は、斎藤妙純の娘である。
 その縁を頼ったのだろう。
 義景の父である。

孝景は、頼武を庇護した。

 将軍義稙は、これを帰国させるよう、孝景に命じた。
 義稙は、政房・頼芸と繋がっている。
 孝景は、これを拒否した。

  土岐次郎の事、其の国逗留然るべからず候、
  早々、参着せしむるの様、急度(きっと)意見を加ふれば、
  尤も神妙たるべく候なり、

     永正十五
       十二月廿六日
      朝倉弾正左衛門尉とのへ
                         (「御内書案」)

頼武は、孝景の妹を妻とした。

 時期は、不明。
 越前滞在中であろう。 
 やがて、二人の間に、嫡男頼純が生まれる。

光秀は、越前と関係が深い。

 この辺りに、その出発点があったのではないか。


          ⇒ 次回へつづく



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