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本能寺の変 1582 上総介信長 1 183 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
上総介信長 1 信秀の死
萱津の合戦。
同日、辰の刻(午前八時頃)。
戦いが始まった。
信長八月十六日辰の刻、東へ向つてかかり合ひ、
数刻、火花をちらし相戦ふ。
孫三郎殿手前にて、
小姓立(上がりの)の赤瀬清六とて、
数度、武篇いたすおぼえの仁体(にんてい)、
先を争ひ、坂井甚介に渡り合ひ、散々に暫く相戦ひ、討死。
信長の、二度目の合戦である。
信長は、急激に、成長していた。
戦国武将として。
初戦に比べると、余裕すら感じさせる。
人間は、環境によって、斯くも、見事に、変わるものなのだろうか。
年齢(十九歳)など、感じさせない戦ぶりである。
終に、清洲衆切り負け、片長(かたおとな=長老)、坂井甚介討死。
頸は、中条小一郎・柴田権六、相討つなり。
此の外、討死、坂井彦左衛門・黒部源介・野村・海老半兵衛・
乾丹波守・山口勘兵衛・堤伊与を初めとして、
歴々、五十騎計り、枕をならべて討死。
信長は、この戦いに勝った。
松葉城と深田城を取り戻した。
一、松葉口廿町計りに取出惣構へを相拘へ、追入れられ、
真島の大門崎つまり(=行き止まり)に相支へ、
辰の刻(8時頃)より、午の刻(12時頃)まで取合ひ、
数刻の矢軍(やいくさ)に、手負、数多(あまた)出来(しゅったい)、
無人になり、引き退く所にて、
赤林孫七・土蔵弥介・足立清六うたせ、本城へ取り入るなり。
一、深田口の事、三十町計りふみ出し、三本木の町を相拘へられ侯。
要害これなき所に侯の間、即時に追ひ崩され、
伊東弥三郎・小坂井久蔵を初めとして、究竟の侍三十余人討死。
これによつて、深田の城・松葉の城、両城へ御人数寄せられ侯。
降参申し、相渡し、清洲へ一手につぼみ(窄み=小さくなる)侯。
信長は、一目置かれる存在になった。
最早、「大うつけ」などではない。
清州城の攻略戦は、この時から始まった。
上総介信長、是れより、清洲を推し詰め、田畠薙させられ、
御取合ひ、初まるなり。
(『信長公記』)
⇒ 次回へつづく