本能寺の変 1582 光秀と信長 4 75~84 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
光秀と信長 4 将軍足利義昭
*75~84は、バックナンバーです。
75 信長は、京に凱旋した。
義昭は、本國寺に御座を置いた。 『信長公記』「言継卿記」
信長は、清水寺に入った。 『信長公記』
信長は、大衆に配慮した。 『信長公記』
信長は、短期間に天下を平定した。 『信長公記』
義昭は、細川管領家の屋敷に御座を移した。 『信長公記』
76 朝廷が動いた。 「言継卿記」
公家たちが内裏に集合した。 「言継卿記」
義昭は、第十五代将軍に就任した。 『信長公記』
細川藤孝は、これに立ち会った。 「言継卿記」
77 信長、あらばこそ。 『信長公記』
信長は、室町幕府の再興を成し遂げた。 『信長公記』
78 義昭は、信長を招いて能を張行した。 『信長公記』
義昭は、得意の絶頂にあった。 『信長公記』
義昭は、信長に副将軍職か管領職を与えようとした。 『信長公記』
使者は、細川藤孝。 『信長公記』
79 信長は、義昭の要請を断った。 『信長公記』
志向の相違。
光秀は、これらを場末で見ていた。 『信長公記』「言継卿記」
80 信長は、分国中の関所を廃止した。 『信長公記』
御父 織田弾正忠殿。 『信長公記』
義昭は、信長に感状を与えた。 『信長公記』
81 信長は、岐阜に帰城した。 『信長公記』
信長の名は、諸国へ鳴り響いた。
信長は、来春、上洛するつもりだった。
信長は、都に五千の兵を残した。 『信長公記』
82 義昭は、幕府の体裁を整えた。
細川藤孝は、御供衆。 「永禄六年諸役人附」
和田惟政も、これに同じ。 「永禄六年諸役人附」
三淵藤英は、御部屋衆。 「永禄六年諸役人附」
83 番衆は、義昭の親衛隊。 「永禄六年諸役人附」
84 光秀は、足軽にすぎなかった。 「永禄六年諸役人附」
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