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本能寺の変 1582 光秀と細川藤孝 2 51 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

光秀と細川藤孝 2 上洛不発 

義昭は、矢島から若狭へ向かった。

 同日夜(永禄九年八月二十九日)。
 義昭は、矢島を発った。
 船で、琵琶湖を渡ったらしい。
 従う家臣は、わずか四、五人。
 この中に、細川藤孝の姿もあった。
 一路、若狭へ。
 武田義統を頼った。

山科言継の証言である。

 「雑説」、「俄か」。
 都に、噂が流れた。

  閏八月小
  一日、己丑、雨降る、十方暮、
  江州矢島の武家、左馬頭義秋、
  一昨夜、四・五人にて、若州へ御座を移さるゝと云々、

  雑説これ有り、
  俄(にわ)かの儀と云々、
                          (「言継卿記」)

山科言継は、信長のことをよく知っていた。

 言継は、京の公家。
 「言継卿記」を著した。
 永正四年の生まれ(1507)。
 天正七年、没(1579)。
 この時、すでに60歳。
 当時としては、老人であった。

 織田家とは、父信秀の代から親交があった。
 初期の信長に関する記録が多く、処々に、光秀も登場する。
 この頃を知る上で、重要な史料である。
 以後も、多々、取り上げる。
 参考にされたい。

若狭は、内乱状態にあった。

 若狭は、武田義統が守護の国。
 だが、義統は、すでに実権を失っていた。
 父子反目、国人割拠。
 義昭を庇護する余裕などなかった。 

 以下は、奈良、多聞院英俊の記録。
 正に、「地獄耳」。
 得難い史料である。
 
  閏八月
  三日、大雨、昼夜降り止まざりおわんぬ、月待ち、曇りて拝し奉らず、
  一、去る二十九日夜、
    上意様は、矢島を御退座、若州に御動座しおわんぬ。

    三人衆、六角方と申し合わせ謀叛の故と云々、
    浅猿(あさまし)〃〃、
 

    若狭も、武田殿父子、取り合いに及び、乱逆と云々、
    いかが成り行くべき哉、
                         (「多聞院日記」)


          ⇒ 次回へつづく


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