本能寺の変1582 重要 ◎第1話 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
重要 ◎第1話
1信長、死す 是非に及ばず 1/3
←はじめに ←目次 ←重要 ◎目次 ←
→重要 ◎目次小
→重要Point ◎目次
→重要Point 通し ◎P1~
→見えてきたもの 目次
*「◎」は、重要ヶ所◎マークです。
*「✓」は、チェック済マークです。
1 ◎ 2 ◎ 3 ◎
*以下は、重要ヶ所◎のみ抜粋したものです。
*加筆修正 240119
◎今から442年前のこと*。
『信長公記』の中でも、最も有名な部分。
著者太田牛一の息づかいが聞こえるようである。
手に汗握る場面。
緊迫感が伝わって来る。
*2024年-1582年=442年
◎時代が変われば、風潮も変わる。
当然、である。
時代の変遷を見れば、そのことがよくわかる。
今から342年前 本能寺の変から100年後
1682 天和二年 江戸時代中期。
第五代将軍、徳川綱吉の時代。
安定した平和な時代だった。
貞享1684 ~ 1688、元禄 1688 ~ 1704、宝永 1704 ~1711
へとつづく。
今から242年前 本能寺の変から200年後。
1782 天明二年 江戸時代中期~後期。
第九代将軍、徳川家治の時代。
天明の大飢饉、浅間山大噴火、田沼意次の失脚。
寛政1789~1801へとつづく。
今から142年前 本能寺の変から300年後。
1882 明治十五年。
〈参考までに〉
1868 明治元年 明治維新。
1877 〃 十年 西南戦争。
1894 〃 二十七年 日清戦争。
1904 〃 三十七年 日露戦争。
今から42年前 本能寺の変から400年後。
1982 昭和57年。
内閣総理大臣鈴木善幸の頃。
ロッキード事件の真っ最中。
東北新幹線、盛岡駅開業。
そして、今、2024 令和6年。
◎時は、戦国時代。
光秀の、生れ育った時代である。
◎当時の風潮が光秀に大きな影響を与えた。
◎光秀の性格・人格は、当時の風潮によって形成された。
すなわち、「原因・動機」の根本的な部分を構成している。
したがって、当時の風潮をよく知らなければならない。
ここが、キーポイント。
このこと、留意すべし!!
◎天正十年六月二日、未明。
世間の誰もが予期せぬことであった。
さる程に、不慮の題目出来(しゅったい)侯て、
◎光秀は、己の心底を打ち明けた。
彼らこそ、腹心の者ども。
「一蓮托生」
強い絆で結ばれていた。
六月朔日、夜に入り、丹波国亀山にて、惟任日向守光秀、逆心を企て、
明智左馬助(秀満)・明智次右衛門(光忠)・藤田伝五(行政)・斎藤内蔵
(利三)、是れ等として談合を相究め、
◎「信長を討つ」
戦国の世である。
「生」と「死」が隣り合っていた。
一手違えれば、そこは地獄。
光秀には、先が見えた。
「ならば」
取るべき道は、ただ一つ。
結果、それは天下簒奪(さんだつ)を意味する。
信長を討ち果たし、天下の主となるべき調儀を究め、
【 重史 016】(『信長公記』)
◎光秀は、出来る男。
◎信長の「隙」を狙っていた。
「隙」、すなわち、「油断」。
必ず、来る。
・・・・・。
光秀は、その時を待っていた。
◎光秀は、用心深い。
◎実に、用意周到だった。
細部に至り手落ちがない。
緻密である。
◎秘して、語らず。
◎最後の最後まで、心底を明かさなかった。
◎世間の誰もがこのことに気づかなかった。
◎光秀は、「卑怯至極の表裏者」。
◎典型的な戦国武将だった。
【参照】目次小 9光秀という男 1フロイスの証言 小
第52話 ☆光秀は、兵法に精通していた。
【参照】◎第152話 第152話
光秀の人物像 勉強家 努力家 権謀術数 兵法 戦国武将
◎光秀は、忍耐強く、粘り強い。
◎そして、実行力があった。
◎この日、この時、このタイミングを待っていた。
中国へ出陣すれば、全てが終わってしまう。
そこに、・・・・・。
最初にして、最後。
「本能寺」
人生、一度限りの、大チャンスが舞い込んで来た。
◎光秀は、中国攻めを取り止めた。
軍勢の一部は、すでに西へ向けて進発していた。
光秀は、これを引き戻した。
亀山より中国へは、三草越えを仕り侯。
爰(ここ)を引き返し、
◎老ノ坂を経て、山崎へ。
明智の軍勢は、東へ向きを変えた。
将兵らは、真の行先を知らず。
東向きに馬の首を並べ、
老の山へ上り、
山崎より摂津国地を出勢すべきの旨、
諸卒に申し触れ、
◎光秀は、亀山を発った。
先手の将は、斎藤利三他、談合の衆。
談合の者どもに先手を申しつけ、
暗闇の中。
軍勢は、粛々と進む。
◎光秀は、沓掛に到着した。
分岐点である。
ここで、道が二つに分れた。
右、中国毛利へ。
左、京。
六月朔日、夜に入り、老の山へ上り、
右へ行く道は、山崎・天神馬場、摂津国皆道(街道)なり。
左へ下れば、京へ出る道なり。
◎光秀は、躊躇せず。
「左」の道をとった。
明智軍は、前進する。
爰(ここ)を左へ下り、
◎そして、桂川へ。
光秀は、川を越えた。
桂川打ち越し、
◎漸く、夜も明け方に罷りなり侯。
目指すは、「本能寺」。
「信長の首」。
漸(ようや)く、夜も明け方に罷りなり侯。
【 重史 017】(『信長公記』)
⇒ 次へつづく
NEW!!
目次 が更新されました。
これで、全体像がよくわかる!!
毎日更新!!
原因・動機の究明は、この一歩から!!
重要 ◎目次 が更新されました。
「本能寺の変」
原因・動機は、この中にあり!!
ご注目下さい!!
見えてきたもの 目次 が更新されました。
これで、さらに、一歩、近づいた!!
ご期待ください!!