本能寺の変 1582 上総介信長 4 199 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
上総介信長 4 道三の援軍
今川勢が尾張に侵入した。
天文二十三年(1554)
正月。
今川義元が攻勢に出た。
狙いは、緒川城(愛知県知多郡東浦町緒川)。
水野信元である。
今川勢は、村木に砦を構えた。
その北方、半里(2km)ほど。
知多郡村木に、付城を築き、兵を入れた(同東浦町大字森岡字取手
八劔神社付近)。
信長と信元の間に、「楔(くさび)」を打ち込んだ。
来援ルートを、遮断する作戦である。
一、さる程に、駿河衆、岡崎に在陣侯て、
鴫(しぎ)原の山岡構へ(重原城 同知立市上重原町本郷)、
攻め干し、乗取り、
岡崎より持ちつゞけ、
是れを根城にして、
小河の水野金吾構へ差し向かひ、
村木と云ふ所、駿河より丈夫に取出を相構へ、
駿河衆、楯籠り侯。
並びに、寺本の城(同知多市八幡町字堀之内 津島神社付近)も、
人質出だし、駿河へ荷担仕り、御敵に罷りなり。
小河への通路を取切り候。
信長は、水野信元を救援しようとした。
しかし、兵力不足。
守備兵を残す余力がなかった。
御後巻として、織田上総介信長御発足たるべきの旨侯。
信元は、徳川家康の伯父。
母の兄である。
生年不詳。
天正三年(1575)。
武田に通じたとの嫌疑により、自害させられた。
これについては、後述する。
那古野城が、清洲織田氏に襲われる恐れがあった。
隙を見せれば、そこを衝かれる。
併(しか)しながら、
御敵、清洲より、定めて(必ず)、御留守に、那古野へ取懸け、
町を放火させ侯ては如何と、おぼしめし、
(『信長公記』)
⇒ 次回へつづく