本能寺の変 1582 光秀という男 2 97~100 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
光秀という男 2 「立入左京亮入道隆佐記」
*97~100は、バックナンバーです。
97 「立入左京亮入道隆佐記」
前代未聞の大将なり。 「立入左京亮入道隆佐記」
立入宗継は、歴史の証人。 「立入左京亮入道隆佐記」
98 光秀は、土岐氏の家臣だった。 「立入左京亮入道隆佐記」
弓取りはせんじてのむへき事に候。 「立入左京亮入道隆佐記」
光秀は、随分衆だった。
99 立入宗継は、朝廷の御蔵職。
立入宗継は、光秀のことをよく知っていた。 「立入宗継文書」
100 光秀は、美濃の出身である。
光秀は、美濃に親戚がいた。 「兼見卿記」
⇒ 次回へつづく
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