本能寺の変 1582 信長の台頭 8 300 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
信長の台頭 8 三好の衰退
畠山方は、総崩れになった。
安見宗房は、大坂石山本願寺へ逃げ込んだ。
畠山高政は、堺から紀伊へ。
安見・遊佐は、石山の城(本願寺)へ落ち行き、
畠山殿は、烏帽子形にも怺(こら=堪)えず、堺え落ちらるゝ、
長慶は、飯盛山から打って出た。
攻囲勢を追い払った。
長慶は、一戦に、敵を押払ひ、忽(たちま)ち、運を開かるゝ、
三好方の大勝利である。
斯くして、三好方は、畠山勢を押し返した。
五畿内に、敵は、もういない。
のみならず、
河内・和泉・大和・山城・摂津、五箇国、皆、三好え降参しける、
三好康長が、高屋城に入った。
高屋城は、阿波の三好氏の城である。
康長は、その家臣。
高屋城えは、三好山城守康長、入城しける、
摂津国の住人、三宅出羽守国村も、畠山殿一味にて、
同五月廿日、豊島郡を放火しけるが、高屋城自落の由を聞きて、
城を落ちて、堺え引き退(の)きけり、
六角承禎は、将軍地蔵山から軍勢を引いた。
京都から、近江へ撤退。
一体、何のための出兵だったのか。
「二万余人」
絶好の機会を失った。
名門、守護大名六角氏。
ここ一番の時を生かせぬのである。
以後、留意されたい。
去年より、将軍地蔵山に在城して、度々、合戦ありし、
六角衆も、畠山殿、落ち給ふと聞きて、
二万余人、江州え、引き退(の)きてける、
此の大勢にて、
一戦は有るべきなれども、をおめおめと、引き返しけり、と、
京童(わらわ)ども、小歌に作りて謡(うた)ひける、
(「足利季世記」)
⇒ 次回へつづく
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