本能寺の変 1582 光秀の年齢 3 141 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
光秀の年齢 3 土岐の随分衆
光秀の明智氏は、土岐頼武の家臣だった。
頼武と頼芸。
守護の座をめぐる兄弟の戦い。
光秀の明智氏は、頼武派。
長井新左衛門と若き日の道三父子は、頼芸派だった。
光秀は、土岐頼純の家臣。
頼武の後を継いだのが頼純である。
光秀は、その家臣だった。
斎藤道三による下剋上が始まった。
天文年間は、元年(1532)~二十三年(1554)まで。
天文二年(1533)。
父、長井新左衛門、死去。
道三がその後を継いだ。
頼純は、道三に殺害された。
天文十六年(1547)のことである。
六角承禎がそれを証言している(一部抜粋)。
また、父左近大夫(道三)、代々惣領(長井氏)成るを討ち殺し、
諸職を奪い取り、
彼の者(道三)、斎藤同名に成りあか(上)り、
剰(あまつさ)え、次郎殿(頼純)を聟(むこ)に取り、
彼が早世候て後、舎弟八郎殿へ申し合はせ、井口へ引き寄せ、
事に左右をよせ、生害させ申し、
其の外の兄弟衆、或いは毒害、或いは隠害にて、
悉(ことごと)く、相果て候、
其の因果歴然の事、
(「春日文書」永禄三年七月二十一日付六角承禎条書第三条2/2)
これらについては、後述する。
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