本能寺の変 1582 光秀という男 2 99 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
光秀という男 2 「立入左京亮入道隆佐記」
立入宗継は、朝廷の御蔵職。
大永八年1528生まれ~元和八年1622没。
京都の商人、金融業者。
代々、禁裏の御蔵職(おくらしき)をつとめた。
米・銭・物品の保管・管理・出納等がその役目である。
永禄七年1564と同十年1567、御料所の回復と御所の修繕を
依頼するため、正親町天皇の綸旨を、信長に届けている。
このことが同十一年1568の、信長の上洛へと繋がった。
また、山中の土豪磯貝久次は、宗継の舅にあたる。
光秀の幕臣時代、久次は、その配下だった。
「兼見卿記」にも、度々登場する。
宗継の菩提寺、清浄華院に、勤王を顕彰する石碑がある(上京区寺町通
広小路上る)。
立入宗継は、光秀のことをよく知っていた。
光秀との接点も、度々、あった。
宗継は、商人である。
情報に聡い。
知らないわけがなかろう。
永禄十二年(1569)四月。
光秀が京都奉行になったばかりの頃。
光秀は、秀吉ら織田家の重臣と連署の上、山国庄の押領問題について、
裁定を下した。
以下は、その時の、書状である。
宛先は、禁裏御蔵職立入宗継。
おそらく、この頃が、最初の出会いになるのであろう。
禁裏御料所山国庄の事、数年宇津右近大夫(頼重)押領仕り候を、
今度信長糾明を遂げ、宇津に違乱を停止すべくの由申し付け、
両御代官へ信長朱印を以って申し渡し候、
前々の如く御直務として仰せ付けられるべきの由、御収納相違有る
べからず候、
宇津かたへも堅く申し遣わし候、
此れらの旨御披露有るべく候、
恐々謹言、
木下藤吉郎
四月十六日 秀吉(花押)
丹羽五郎左衛門慰
長秀(花押)
中川八郎右衛門
重政(花押)
明智十兵衛慰
光秀(花押)
立入左京亮(宗継)殿
(「立入宗継文書」)
なお、これについては後述する。
⇒ 次回へつづく
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