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本能寺の変 1582 上総介信長 6 210 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

上総介信長 6 道三の最期 

山口父子は、信長を裏切った。

 三年前のこと。
 すなわち、天文二十一年(1552)。
 「赤塚の合戦」 
 その背後で、今川義元が糸を引いていた。
 【要参照】180
 
  一、熱田より一里東、鳴海の城、山口左馬助入れ置かれ侯。
    是れは武篇者、才覚の仁也。

    既に、逆心を企て、駿河衆を引き入れ、
    ならび大高の城・沓懸の城、両城も左馬助調略を以て乗つ取り、
    推し並べ、三金輪に*三ケ所、何方へも、間は一里づゝなり。

      *三本足の鼎(かなえ=酒器の一種)のように、しっかりと。

今川義元は、尾張へ軍勢を派した。

 岡部元信を、鳴海城に入れた。  

    鳴海の城には、駿河より岡部五郎兵衛城代として楯籠り、
    大高の城・沓懸の城、番手の人数、多太々々(たぷたぷ)と
    入れ置く。

山口父子の最期。

 ところが、・・・・・。
 父子は、義元によって、誅殺された。 
 理由は、明らかならず。
 信長の謀略に引っ懸かったともいわれるが、定かではない。

    此の後、程在つて、
    山口左馬助子息九郎次郎父子、駿州へ呼び寄せ、
    忠節の褒美は無くして、
    無情(なさけなく)、親子共に腹をきらせ侯。
                          (『信長公記』)


          ⇒ 次回へつづく



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