本能寺の変 1582 信長の台頭 2 252 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
信長の台頭 2 尾張統一
岩倉落城の事。
一、或る時、岩倉を推し詰め、町を放火し、生(はだ)か城になされ、
四方しゝ垣、二重三重、丈夫に仰せ付けられ、廻り番を堅め、
信長は、岩倉城を包囲した。
太田牛一は、「或る時」と言っている。
年次を明確にしていない。
迷うところである。
永禄元年(1558)、七月。
浮野の合戦。
信長は、この戦いで、岩倉織田氏に壊滅的な打撃を与えた。
同氏は、再起不能に陥った。
信長は、家臣らに、岩倉領を、新知として分け与えた。
【参照】241~242
という、史実がある。
したがって、これは永禄元年のこと。
そして、以下につづき、
後顧の憂いを断ってからの、
永禄二年二月の上洛となる、のではないか。
その様に、思う。
とすれば、順序が逆になる。
このことをご留意の上、お読みいただければと思います。
戦いは、二ヶ月余りつづいた。
兵の損耗を忌避したのだろう。
信長は、兵糧攻めに徹した。
二、三ケ月、近陣にとりより(取り寄り)、
ここで、鉄炮隊が活躍した。
火矢・鉄炮を射入れ、様々攻めさせられ、
(『信長公記』)
⇒ 次回へつづく
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?