本能寺の変 1582 光秀と信長 4 76 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
光秀と信長 4 御父信長
朝廷が動いた。
義昭を征夷大将軍に任ず。
十月十八日、甲午(きのえうま)、天晴
今夜、将軍宣下これ有り、
公家たちが内裏に集合した。
義昭の晴れ舞台である。
廿二日、戊戌(つちのえ)、天晴、
今日、武家御参内これ有り、
廻し文は、斯くの如し。
参会の事、去る十九日伝奏万里小路より廻文此の如し、
刻限辰一点(8時頃)の由、其の沙汰に候也、
来廿二日、室町殿御参内有るべく、
各(おのおの)参会せしめ給う由候也、
十月十八日 惟房
柳原殿、烏丸殿、中山殿、広橋殿、山科殿、飛鳥井殿、
庭田殿、葉室殿、柳原殿、三条殿、甘露寺殿、山科殿、
正親町殿、飛鳥井殿、中山殿、日野殿、中御門殿、
広橋殿、坊城殿、白川殿、
(「言継卿記」)
義昭は、第十五代将軍に就任した。
義昭、参内。
名誉の瞬間である。
十月廿二日、御参内。
職掌(しきしょう)の御出立、儀式相調へ、征夷将軍に備へ奉り、
城都(京)御安座。
(『信長公記』)
細川藤孝は、これに立ち会った。
和田惟政もいる。
長い道のりだった。
これまでの苦労の数々。
ようやく、ここに結実した。
随伴した家臣は、以下の通り。
御供衆、細川右馬頭藤賢、上野佐渡守﹅﹅、一色式部少輔藤長、
細川兵部大輔藤孝、三淵弥四郎﹅﹅、上野中務大輔﹅﹅、
和田伊賀守﹅﹅、
御同朋春阿、
御走衆左、三上兵庫助、安威兵部少輔、沼田弥四郎、
右、本郷治部少輔、金山常陸介、眞下宮内少輔等なり、
(「言継卿記」二十二日条)
⇒ 次回へつづく