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本能寺の変 1582 信長の台頭 3 267 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
信長の台頭 3 桶狭間
やがて、雨が上がった。
その時、敵は眼前にいた。
信長は、攻撃を命じた。
「懸かれ!」
大音声である。
空晴るゝを御覧じ、
信長、鎗をおつ取つて、大音声を上げて、
すは、かゝれ、々々々、と仰せられ、
大喊声とともに。
全軍、突撃。
黒煙(くろけむり)立て、懸かるを見て、
今川軍は、義元の本陣の、北西側に、広範囲にわたって軍勢を展開して
いた。
となれば、当然、布陣は、薄く、細長くなる。
今川軍は、総崩れになった。
気がついたら、目の前に敵がいる。
これでは、さしもの今川勢も、なす術(すべ)がない。
アッという間に、崩壊した。
義元は、輿(こし)を捨て、逃げた。
(今川方は)水をまく(撒)るが如く、後ろへ、くはつと崩れたり。
弓・鑓(鎗)・鉄炮・のぼり・さし物等、算を乱すに異ならず。
今川義元の塗輿(ぬりこし)も捨て、くづれ迯(逃)れけり。
(『信長公記』)
信長は、今川方に、体制を立て直す間を与えなかった。
織田軍は、わき腹を衝くかの如く、西から東に向かって突撃した。
まるで、錐(きり)を突き刺すように。
強く、激しく、深々と。
正に、一点集中、中央突破。
天候急変による豪雨を利用した、「急襲」である。
⇒ 次回へつづく