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本能寺の変 1582 上総介信長 2 188 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

上総介信長 2 富田聖徳寺 

道三は、信長に感服した。

 道三は、信長に圧倒された。
 
  (道三は)附子(ぶす=苦虫)をかみたる風情(ふぜい)にて、
  又、やがて参会すべしと申し、罷り立ち侯なり。

三間々中柄の朱やり、五百本ばかり。

 信長の行列は、華麗だった。
 
  (道三は)廿町許り御見送り侯。
  其の時、美濃衆の鎗はみじかく、
  こなたの鎗は長く、扣(ひか=控)え立ち侯て参らるゝを、
  道三見申し侯て、興をさましたる有様にて、有無を申さず罷り帰り侯。
 
  途中、あかなべと申す所にて、
  猪子兵介、山城道三に申し様は、
  何と見申し侯ても、上総介はたわけにて侯と申し侯時、

たわけ人と云ふ事、申す人これなし。

 信長は、道三を魅了した。
 道三は、信長が気に入った。
 「同じ穴の狢」
 ならばこそ、わかるのであろう。
 「底知れぬ恐ろしさ」
 その様な何かを、感じ取ったものと思う。
 「すさま(凄ま)じき男、隣には、いやなる人にて侯」
 以後、最大・最強の理解者・協力者となる。

  道三申し様に、
  されば、無念なる事に侯。
  山城が子供、たわけが門外に馬を繋ぐべき事(=家臣になるの意)、
  案の内にて候と計り申し侯。

  今より已後、道三が前にて、たわけ人と云ふ事、申す人これなし。
                           (『信長公記』)

 
         ⇒ 次回へつづく

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