本能寺の変 1582 信長の台頭 3 263 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
信長の台頭 3 桶狭間
信長は、今川方から丸見えだった。
善照寺砦は、鳴海城に近接していた。
その間、およそ500~600m。
周囲には、遮るものなど何もない。
信長の行動は、敵味方からよく見えた。
小競り合いが始まった。
佐々隼人正と千秋四郎が討死した。
信長、善照寺へ御出(い)でを見申し、
佐々隼人正・千秋四郎二首(かしら)、
人数三百計りにて、義元へ向つて、足軽に罷り出で侯へば、
(今川方が)ドッとかゝり来たりて、
鎗下にて、千秋四郎・佐々隼人正を初めとして、
五十騎計り討ち死にし、
千秋四郎(季忠)は、熱田大宮司千秋季光の子。
知多郡、羽豆崎城主。
神官でありながら、信長に仕えた。
享年、二十七。
佐々隼人正は、成政の兄。
信長の父信秀の代、小豆坂の戦い(天文十一年1542)で戦功をあげた
という。
年齢不詳。
今川義元は、油断した。
義元は、上機嫌だった。
「幸先のよいことよ」
間もなく、である。
「信長の首」
そう、思ったことだろう。
そこに、油断が生じた。
是れを見て、
義元が戈(ほこ)先には、天魔鬼神も忍(たま)るべからず、
心地はよしと悦(よろこ)びて、
緩々(ゆるゆる)として、
謡をうたはせ、
陣を居(す)えられ侯。
(『信長公記』)
このことが、将兵らの士気の緩みを生み、・・・・・。
結果、義元の命取りとなった。
⇒ 次回へつづく