本能寺の変 1582 信長の台頭 7 291 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
信長の台頭 7 斎藤義龍の死
十四条合戦の事。
先に、これまでの、経緯。
一、永禄四年、辛酉(かのととり)、五月上旬、
木曾川・飛騨川、大河打ち越し、西美濃へ御乱入。
信長は、墨俣砦を入った。
大垣市墨俣町墨俣。
西美濃攻略の足懸りとした。
在々所々、放火にて、
其の後、洲股(墨俣)御要害丈夫に仰せ付けられ、
御居陣侯のところ、
斎藤勢が十四条に押し出した。
同(五月)二十三日。
稲葉山より、出陣。
十四条(岐阜県本巣市十四条)に布陣した。
城の西方、二里半(10km)ほどの地。
五月廿三日、井口より、惣人数を出だし、
十四条と云ふ村に、御敵人数を備へ侯。
織田勢は、墨俣から出撃した。
程なく、小競り合いが始まった。
則ち、洲股より懸け付け、足軽ども取り合ひ、
朝合戦に、御身方、瑞雲庵おとゝ(弟)*、うた(討)れ、引き退く。
(『信長公記』)
*瑞雲庵おとゝ 犬山城主織田信清の弟広良と云う。
信清は、信長の従兄弟。
後に、対立する。
⇒ 次回へつづく
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