本能寺の変 1582 上総介信長 6 212 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
上総介信長 6 道三の最期
道三には、三人の息子がいた。
天文二十四年、十月。
山城子息、一男新九郎(義龍)・二男孫四郎・三男喜平次、
兄弟三人これあり。
父子四人、共に、稲葉山に居城なり。
道三と義龍の間に、大きな亀裂が入った。
道三の老い。
義龍の嫉妬・焦り・不安。
惣別、人の総領たる者は、必ずしも、心が緩々(ゆるゆる)として、
穏当なるものに侯。
道三は、智慧の鏡も曇り、
新九郎は、耄(ほ)れ者(愚か者)と計り心得て、
弟二人を利口の者哉(かな)と崇敬して、
三男喜平次を一色右兵衛大輔になし、居ながら官を進められ、
ヶ様に侯間、弟ども勝ちに乗りて奢(おご)り、蔑如に持て扱ひ侯。
義龍は、廃嫡されると思った。
同十三日。
義龍は、策を講じた。
つくり病で床に臥せた。
新九郎(義龍)、外見、無念に存知、十月十三日より作病を構へ、
奥へ引き入り、平臥(ひれふし)侯ひき。
(『信長公記』)
⇒ 次回へつづく