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本能寺の変 1582 信長の台頭 3 258 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

信長の台頭 3 桶狭間 

三好長慶、得意の場面である。

 己の権威を世に知らしめる。
 これが、今回の上洛の目的だった。 

  永禄三年正月十五日、細川氏綱、淀城に御座けるに、
  畠山殿・三好殿、御礼に参らる、
 
  同二月四日(六日の誤り)、公方義輝、御参内あり、

  三好長慶は、松永を召し連れ、去る月(一月)十六日、淀より上洛あり、
  今に、在京なり、

  今度(こたび)、御参内の御供に参り、
  修理大夫に任じ、子息孫二郎慶(義)興は筑前守に任じ、
  陪臣松永弾正忠を弾正少弼に任ぜられける、

  是れは、昔、武衛家(斯波氏)の、朝倉を召し加えらるゝ後に、
  御相伴衆に成されし例にまかせて、今度、御供衆に召し加えられける、
  誠に、希代の面目なり、

  (青は藍より取りて)藍よりも青く、
  (氷は水これを為して)水よりも寒(つめ)たし、

  三好は、細川の下より出で、細川に勝り、
  松永、又、三好家の下にありて、三好に威を益(ま=益)さりける、  

  同十日、各(おのおの)、芥川城えかへり下られける、
  かかる目出度き世の中に、
                         (「足利季世記」)

長慶は、将軍義輝を必要としていた。

 権威づけのために。
 どうしても、必要だった。

 後の、信長との決定的な違いである。

長慶は、家臣の統制が甘かった。

 この中で、松永久秀の台頭を仄(ほの)めかしている。
 「松永、又、三好家の下にありて、三好に威を益さりける」
 
 これもまた、信長と違うところである。

          ⇒ 次回へつづく



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