本能寺の変 1582 信長の甲斐侵攻 5 238 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
信長の甲斐侵攻 5 潮目の変化
⑧信長は、北条氏との友好関係を保持した。
北条氏政・氏直父子は恭順している。
「これで、よい」
なれど、油断せず。
相州氏政、駿河へ在陣にて、一廉(ひとかど)馳走候、
東八箇国の儀は勿論、異儀なく隙を明け(平和である)候、
信長は、視点を、東国から西国へ切り替えた。
これで、東国は片付いた。
否、今少し。
暫し、様子を窺う。
となれば、残すところは、西国のみ。
先ずは、中国毛利。
ならば、その時期は、・・・・・。
その様な段階に、突入した。
⑨信長は、信忠を現地に残した。
戦後処理のために。
しかし、長く置く気などさらさらない。
「暫しの間」
それで、十分。
そのための、滝川一益。
そして、帰陣を仄(ほの)めかした。
然らば、甲斐・信濃の事、城介を残し置き申し付くべき候、
信長は、不日帰国すべく候、
(「武家事紀」「織田信長文書の研究」⑧~⑨/⑪)
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